文化 / 2026年5月26日
宇喜多秀家、関ヶ原から八丈島へ。流刑50年を生きた男の墓を、初夏の午後にひとりで歩いた
1606年、34歳で八丈島に流された宇喜多秀家。それから50年、一度も島の外に出ることなく84歳で没した。約1,900人が流された島の話と、その文化的余熱。
僕
ホテル運営者・編集長 / 2026年5月26日
八丈島・大賀郷の集落のはずれに、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の墓があります。徒歩で行ける場所で、初夏の午後に一人で訪ねたとき、参拝者は僕以外に誰もいませんでした。稲場墓地の一角。元禄年間に建てかえられたという五輪塔と、墓地を囲む石垣の上に置かれた「岡山城天守閣礎石」と刻まれた石。それだけがそこにありました。
宇喜多秀家は、豊臣秀吉の養女・豪姫を正室にもち、20代半ばで五大老の一人に列せられた、備前岡山57万4千石の大名です。関ヶ原の合戦では西軍の副大将として、最大規模となる1万7千の兵を率いて福島正則隊と激しくぶつかった。「福島家の旗と宇喜多家の旗が二、三度退却した」と当時の記録に書かれるほどの激戦でしたが、同じ豊臣一門であるはずの小早川秀秋の寝返りで西軍は総崩れに。秀家は伊吹山中をへて薩摩へ落ち、島津家に約2年匿われたのち、徳川幕府に身柄を引き渡されました。
死罪は、義兄である前田利長(豪姫の兄)と、島津義弘の子・忠恒の懇願によって免れます。駿河国の久能山で3年ほど幽閉されたのち、慶長11年(1606年)4月、ついに八丈島へ流刑となりました。八丈島・島流しの「第一号」です。秀家、満34歳。妻の豪姫は同行を強く望みましたが、これは幕府に却下され、加賀前田家で余生を送ることになります。
それから、亡くなる明暦元年(1655年)11月20日まで、ちょうど50年。江戸幕府はすでに4代将軍・徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦したすべての大名のなかで、秀家はもっとも長く生きました。享年84(満83歳)。
13人で渡った島、そして「休福」と名乗った男
秀家は嫡男の秀高(通称・孫九郎)と末子の秀継(通称・小平次)、家来あわせて13人で八丈島に渡ったと伝えられています(『岡山県東京事務所』資料、Wikipedia「宇喜多秀継」項ほか)。剃髪し、自らを「休福(きゅうふく)」と号した。薩摩の牛根で潜伏していた時期は「休復」と名乗っていたという記録もあり、出家者として静かに生きるという意思は、関ヶ原後から一貫していたのかもしれません。
ただ、静かに、というのは穏やかにという意味ではなかったはずです。元五大老が、年に2俵の米を受け取ったことに丁重な礼状を書く——。年代不詳の進藤三左衛門宛て書状(『進藤文書』)には、島の生活の心細さ、老病、寝ついていることなどが切々と綴られています(歴史学者・渡邊大門氏の解説に詳しい)。代官の谷庄兵衛に食事に招かれた際、「私は勘気を被った身であるから、代官と同じ膳をいただくのは憚られる」と箸を下ろした、という逸話も『浮田秀家記』に残ります。
備前岡山から漁船が八丈島に漂着したとき、岩の上で釣りをしていた老人が秀家だと知った船頭が積み荷の酒樽を差し出すと、秀家は涙を流して喜んだ——。八丈島歴史民俗資料館に伝わるこの話の真偽はわかりません。でも、そういう逸話が残るような距離感で、彼は島民と暮らしていたのだと思います。
加賀前田家から、260年続いた仕送り
ここからは、僕がいちばん心を動かされた話です。
豪姫は秀家とともに島へ行くことが叶わなかった代わりに、幕府に願い出て、八丈島への物資援助を許可されました。隔年(1年おき)に、白米70俵、金子35両、衣類、雑貨、医薬品を送り続けたと記録に残っています(岡山県東京事務所「宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島」資料)。
豪姫が亡くなったのは寛永11年(1634年)。秀家が死んだのは1655年。それでも前田家からの仕送りは止まりませんでした。秀家の死後、彼の子孫(島で7家に分かれ、嫡男・孫九郎の直系のみが「宇喜多」を、他は「浮田」を名乗ったと伝わります)に対しても、明治2年(1869年)に明治政府が宇喜多一族を赦免するまで、約260年間途絶えなかったといいます。
加賀百万石の義理堅さ、と言ってしまえばそれまでですが、配偶者の実家が何百年も後の子孫に仕送りを続ける——これは現代の感覚ではちょっと想像しづらいスケールの話です。
八丈島の西岸、八丈富士の溶岩が広がる南原千畳岩(千畳敷)には、平成9年(1997年)、岡山城築城400年を記念して秀家と豪姫の像が建てられました。お雛様のように並んだふたりは、はるか岡山の方角を見つめている。生きて再会することは叶わなかった夫婦が、約400年ぶりに八丈島で再会した、ということになります。
約1,900人が、この島で死ぬまで暮らした
八丈島が流刑地として機能したのは、秀家が流された慶長11年(1606年)から、明治4年(1871年)の流刑制度廃止までの約265年間。
『八丈島誌』および「流人明細帳」の集計では、慶長11年〜明治4年の262年間で1,877人が八丈島に流されたとされています。一般には「約1,900人」と表現されることが多い。伊豆諸島全体では、三宅島が約2,300人と最多で、新島が1,333人、八丈島がそれに次ぐ規模です。寛保2年(1742年)の「公事方御定書」で配流地が七島に明文化され、寛政8年(1796年)以降は実質的に新島・三宅島・八丈島の3島に集約されていきました(その後、青ヶ島などに流された例外もあります)。
選ばれた理由はシンプルで、本土から離れていて脱出が困難だったから。冬の海は今でも船が欠航するくらい荒れますし、当時の和船で本土まで戻るのは現実的に不可能でした。
ただ、八丈島の流刑がほかと違うのは、流人と島民の距離の近さです。流人は島民の家に預けられたり、寺子屋の先生をしたり、医者として診療したり、自分の知識や技術と引き換えに食い扶持を得ていました。島民は流人を「国人(くにんちゅう)」と呼び、本土から文化を運んでくる存在として、比較的丁寧に迎え入れていたといいます。中には島の娘と結婚して家庭を持った流人もいる。
ちなみに、罪状は殺人や放火ではありません(これらは死罪)。武士の金銭不祥事、僧侶の女犯、無宿者の博打・喧嘩——いまの基準で言えば微罪に近いものが大半でした。八丈島では江戸期の流人のうち、無宿462人(24.6%)、士・下士349人(18.5%)、僧侶237人(12.6%)という構成だったと『八丈島誌』にあります。赦免されて本土に帰ることができたのは全流人の約40%で、残りは島で生涯を終えました。
流人が島に残したもの
265年のあいだ、京や江戸から島へ流れ着いた人々が持ち込んだ文化は、想像以上に多様です。漢学、書、医学、絵画、そして焼酎。1853年に薩摩から流された丹宗庄右衛門(たんそう しょうえもん)は、それまで穀類のドブロクしかなかった島にさつまいもからの焼酎の製法を伝え、これが今の八丈島の島酒文化の源になっています。八重根には「島酒之碑」も建っています。
僕がいちばん大きいと思っているのは、八丈太鼓のリズムと、しょめ節と呼ばれる民謡の節回しです。
八丈太鼓の最大の特徴は、太鼓を横に倒して二人で向かい合って両面から打つ「両面打ち」。一人が下拍子(リズムの土台)を刻み、もう一人が上拍子(自由演奏)を即興で乗せていく。決まった譜面はなく、奏者ごとに「自分らしいパターン」があり、聴くたびに違う表情を見せる。
起源については二説あります。一つは「刀を取り上げられた流人(武士)が、二本の太刀を二本のバチに置き換え、鬱憤や望郷の念を込めて打ち鳴らした」というロマンチックな伝承。もう一つは、島民、特に黄八丈を織る女性たちが、盆踊りや祝祭の場で楽しんでいた娯楽だったという説で、こちらは江戸期の文献『絵入八丈土産』(1847年)や『八たけの寐さめ草』(1848年)に「裏表から打ちはたく」と記録されていることから、近年は史実に近いとされています。
どちらが正解、というよりは、両方が混ざりあって今の八丈太鼓があるのだと思います。慰めも娯楽も極端に少ない島で、誰かと同じ呼吸で打つ太鼓だけが、寂しさの逃げ道だった——そう想像すると、今の八丈太鼓の音が違って聞こえてくる気がします。
民謡の「しょめ節」は、語源が「梅干しがちょうどよく漬かった塩梅(しおうめ)」説、黒潮と親潮がぶつかる「潮目(しおめ)」説など諸説あって、はっきりしません。ただ、流人が持ち込んだ本土の節回しと、島で歌い継がれてきた古い唄が、長い年月のなかで溶け合った民謡群であることは確かです。
近藤富蔵という、もう一人の流人
宇喜多秀家から221年後の文政10年(1827年)、もう一人、語っておきたい流人が八丈島に渡りました。近藤富蔵(こんどう とみぞう、1805〜1887)。北方探検家として知られる旗本・近藤重蔵の長男です。22歳のとき、地所の境界争いから隣家の7人を殺傷し、八丈島へ流されました。
富蔵がすごいのは、流人生活のなかで八丈島の歴史・民俗・植物・言語・行事を執念深く調べあげ、『八丈実記(はちじょうじっき)』全69巻(70冊とも)を書き残したことです。柳田国男・折口信夫といった日本民俗学の巨人たちが熱心に読み、井伏鱒二もこれをもとに『青ヶ島大概記』を書いた。明治13年(1880年)の赦免後、いったん本土に戻ったものの、富蔵は再び八丈島に渡り、明治20年(1887年)、83歳で島で没しました。
『八丈実記』は戦後、緑地社から7巻本として刊行(1964〜1976年)され、社長の小林秀雄はこの業績で菊池寛賞を受賞しています。八丈町立図書館で閲覧できるので、文化に深入りしたい人は一度開いてみる価値があります。
今も残っている場所
宇喜多秀家の墓のほかに、島内には流人にまつわる場所がいくつか残っています。
- 宇喜多秀家公の墓(大賀郷・稲場墓地)。当初は「南無阿弥陀仏」と刻まれた卒塔婆型の細長い石でしたが、元禄年間に「尊光院殿秀月久福大居士」と諡号され、その後、高さ6尺の五輪塔型に改められました。
- 秀家公と豪姫の像(南原千畳岩)。平成9年、岡山城築城400年記念。
- 近藤富蔵(守真)の墓(東京都指定旧跡)、開善院善光寺ほか。
- 大里地区の玉石垣。一つの石を六つで囲む「六方積み」の見事な石垣群で、流人が八重根の横間海岸から1キロ近く運び上げたと伝わります。「玉石ひとつでおにぎり1個」が日当代わりだった、という言い伝えもあります。労役という強制ではなく、生きるための糧として運んだ、というニュアンスのほうが伝承には近い。
初夏の午後、宇喜多秀家の墓の前に立ったとき、50年という数字が急に重く感じました。34歳で島に着いて、84歳で死ぬ。同じ場所で、同じ海を見続けて。乱世が鎮まった時期に赦免の話もあったが、秀家自身がそれを固辞して島にとどまった、という伝承もあるそうです。本当かどうかはわかりません。でも、彼の子孫が島で代を重ね、明治の赦免後に71人が東京の前田家下屋敷に引き取られたという事実だけは、確かに記録に残っている。
それを今の暮らしと比べる意味はないけれど、この島が「ただの離島」じゃないことだけは、確実に伝わってきました。
参考文献・主な出典
- 『八丈島誌』八丈町
- 近藤富蔵『八丈実記』全7巻(緑地社、1964〜1976年/八丈町立図書館蔵)
- 『浮田秀家記』『進藤文書』『秀家卿木像躰中記』(秀家関連の二次史料)
- 岡山県東京事務所「宇喜多秀家ゆかりの地 八丈島」
- 八丈町文化財情報「近藤守真墓」「八丈島役所跡」
- 渡邊大門「八丈島に流された宇喜多秀家は、家臣らの仕送りなしでは生きていけなかった」(Yahoo!ニュース エキスパート)
- 東京都地域資源「八丈島の民謡(ショメ節、太鼓節、春山節)」
- 「流人明細帳」(八丈島歴史民俗資料館)
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